昭和五十七年一月二十一日 朝の御理解
x御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして娘入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
自分の心ひとつを治め得ずして家が治まるとは思われない。国を治める、というても自分の家庭ひとつ納め得ずして国を治めるなんていう事はちょっとおかしい。そういう人達に国を治められるはずがない、ね。もうこの八十八節はどういうわけか限りなく頂く。まあ、御理解としては娘が娘入りをする時に親が鏡を持たしてやるというあの御理解ですけれども。けれども、いつもここ合楽の場合はこの八十八節という、そこのところを頂かせたい、頂きたい。皆なにも頂いてもらいたい、というそういう思いが、この八十八節を頂くのぢゃなかろうかと思う。
八十八節といえば、広がりに広がる、というわけですけれどもそれにはどうしても肝心・要のね。心ひとつで、と言われる。又、心を治めるという事は結局は自分自身が助かる、という事、ね。まあ、いうならば不安はない、心配はないと。心の中は喜びでいっぱい。どんな場合であっても喜べるという、そういう心におかげがあるといわれるのですから。結局、肝心要のこの心にいよいよ本気で取り組まなければいけんのですけれども、どうしてもこの心に取り組むという事よりも、結局、まあ、その日その日の立行とかおかげを、まあ、願います、又、願わずにはおれませんから。けれども、その根本になる願う心のその心、根本のものが、ね。いかに願ってもこの心の状態ではおかげが受けられない事も、分からしてもらい、悟らしてもろうて、結局、肝心要の、要のところに取り組ましてもらう、ね。いうならば、あの~センスならセンスでも、その要のところがバラバラになっておったんでは、ね。いかに広がったようであっても、それは台無しであります、ね。肝心要のところがしっかり、その肝心要のところをです、ね。ここでは、ま、「家を治めよ」とありますけれども、家を治める為には、まず自分自身の心が治まっておらねば、「家を治める」といったような事は出来ないという事です、ね。自分の心ひとつが治められん、というような事では出来ません。その心ひとつを、いわば教祖の神様は、「生神とは、ここに神が生まれるという事であって」と教えておられます。自分の心の中に有難いな、と自分の心で自分が合掌できるようなその心なんです。その心をいよいよ育てていく、という事に私は焦点を置かないかぎり、ね。目先目先のおかげを頂いていってもね、それは要が、いうなら崩れておるセンスがこう広がっていくようなもんだと思うです。どうでも、肝心要のもの。それは「心」である、ね。もう確かにそうです。もう心のひとつに人間の、いわゆる幸福の条件があれこれと足ろうてくる。それには、いよいよ勿体ない、有難い、という心がいやが上にも出来てくる。
昨日は、今、福岡のあそこは市立美術館でしょうかねえ。初めて参りましたが、素晴らしい美術館が出来ておりますが、そこで、御案内を頂いておりまして、昨日菊栄会の方達、秋永先生達が思いたって下さって、見せて頂きました。ほりゃあ、もう広い事広い事。もう歩くだけでも途中で何回も休まなんならんようにありましたが、ほりゃあ、見事な日本の昔の屏風絵なんです。大きな、殆ど一間ものの大きな絵でございましたが、アメリカから里帰りをしてきておる、という。アメリカの美術館に納められてあったものが、今、日本に来ておる、というので、又と見れないから、一遍、家内とその前の日に一遍、これはいっちょ見げ行きたいなあ、と言いよったら、あくる日、文雄先生がその入場券をもって来て下さり、それでいろいろ計画してくれて、そいでこちらから私と正義先生と繁雄さんと三人で参りました。私はいつも思うですけども、ああいう美術館なんかに参りましたり、あんなコレクションなんか見ます時に、あら、これは家にもあるてい、というような物を発見いたします。
先だって、出光の美術館、もう何年も前でしたけれども、見に参りました時に、もう小さい花瓶ですけれども、まあ、一千万以上もする、といったような大変もう世にもまれな、あれは古九谷でしたがね。青古九谷でしたが、それを家に私の部屋でいつも花が入れてある。それがどうも似てるから帰って調べたら、それがまさしく古九谷だった、と。昨日も、ずうっと見て回るうちに、あら、これは直入という人の書いた、あの素晴らしい屏風がありましたが、あ、この直入の絵は家にもあるたい、ち、いうて、今、客殿に〓〓〓の絵が掛かってるんです。それが直入なんです。大変な値打ちのある物らしいんです。そいで、段々見て行きよりましたら常信という人の絵があります。それも小さい軸ものですけども、あ、常信のもある。私が、勿論好きではありますけれども、求めて買ってという物は一点とてもない。それが例えばそういうまあ、あっても、無くても、いいようなもんですけれども、そういうものが合楽に集まっておる。勿論、人間の幸福の条件といったような、もう一切のものがね、合楽には集まっておる。いつの間にか、その、神様が集めておって下さる。例えば、三代金光様とか、今の金光様のお書きになったものがお願いをして書いてもらったというものは何一点ありません。一点もないです。それにああいう大きな軸とか大きな額なんかまでが集まって来ておる、という事は、これはやっぱり、私、思うのに、ね。心ひとつに集まって来るものだと思うんですよ。求めてじゃなくてね。改めて今日、直入と常信の絵を、まっ一遍見直してみなけりゃいけないと、ま、思ったのですけれども、ね。も、問題はね。もう鬼に角、まあ、いわゆる、がめつう集めるというのではなくて、ね。集まってくる、というおかげを頂かなければ人間の幸福はない。それには、まず何というても、自分の心ひとつが治められんで、ね。私は助かっている。という事はいえない。助かる。という事は心が助かる。それに、なら助かりの条件。様々な物が足ろうてくると、ね。そういう例えばおかげをね、願わせて頂くという事が私、八十八節の本当の芯じゃなかろうかと思うんです。センスでいうなら肝心要の、広がったようであっても、ね。それはまあ、ガタガタであります、ね。肝心要の所がしっかりしておって、これがこう八十八節である。広がりに広がっていく、というものでなからなければ、私は本当のおかげではない。又、神様も、そういうおかげを受けてくれよ、という願いをこの八十八節にいつも感じるのです。鏡を立ててと、ね。いうならば、教えの鏡を立てて間違わないように、汚れておるなら洗いもしよう。曲がっておるなら真っ直ぐもしていこう、と。そうしないと自分の心が助からないです。自分の心が曲がっておったり、よごんでおったり、我情我欲でいっぱいであったり、ね。ただ、信心のいわゆる根本の所をこの御教えから私いつも感じて、しかもその所に気づいてそこに取り組んでいったら、広がりに広がる。というおかげが受けられる。と思うね。肝心要の所は「心」です。ですから、心をいよいよ、ね。自分で自分の心が治められる所まではひとつおかげを頂きたい、ね。そこには、例えていうと、ま、ね。一切が例えば神愛と悟らせてもらうと、ね。どんな事であっても、神愛として受けられる。そういう心の状態が自分の心を治めるという事じゃないでしょうか、ね。どうぞ。